久しぶりに人に読んでもらうことを前提とした文を、そして初めてブログっぽいブログを書いた。
TwitterとTikTokのユーザーはリンクしなさそうだし、半ば焼け石に水をかけるような思いだったけど、2ワードで検索をかけたら早速上位に出て、意外と読んでもらえるのでは?と希望が湧いた。まずTwitterで既に90人の方が読んでくれたのでもうよかった。
言いたいこと≠伝えたいことだなあと改めて痛感した。
いつもみたいに足し算足し算足し算の文じゃ、ただただ合計が膨れ上がって、読み手がうまく呑み込んでくれない。何が言いたいのか結局伝えられない。折角良い事を書いててもそれじゃ勿体ない。
言いたいことから適度に引き算もして、丁度いい塩梅の合計を、伝えたいことを作らなくちゃならない。
説得力のある文章が好きだから、専門用語とか注釈とか引用とか使おうとしたけど、最近のブログみたいにしたかったから全部やめた。少しでも難しい内容だったらもう読んでくれなくなる気がした。読みにくいサイトの離脱率が大きいみたいに。
行き場の無くなったMC原文。
Cure For Me演奏前のMC
“It has a good feeling behind the song,
because I think it’s so important that we are allowed to be who we are.
In this world, it’s very easy to feel like you are not good enough, or like you are too strange or too different, and it’s very difficult to fit in and find a hope.
This song is for everyone out there who has felt this hatred in the world.
I love you so much, no matter who you are, and you are allowed, should be allowed to be just who you are, as a person, as a human. and allowed to love, you should be allowed to love, everyone to love.
I think it’s so important, because I believe love, a human right, and the equality of the human right.
So this song is for you, if you need it”
そう。昨年のスパソニのAURORAのアクト、録音してた。
AURORAはこの曲の前に絶対に何か言うと思ったし、自分もその場で100%理解できる自信が無かったから。
まさか1年後に役立つとは思わなかったけど。
私が思ってた事を書いてくれてるライターさんがいた。
総括 〜現代における巨大な音楽フェスティバルの存在について〜
もちろん、アーティストが何かしらのメッセージをステージ上から発信することは数十年前から続いており、それ自体が珍しいわけではない。だが、時代の変化と共に、「ステージからメッセージを発信すること」の重要性が高まっていることは事実だろう。なぜなら、この時代において巨大な音楽フェスティバルは、その場所だけで完結するクローズドな空間ではないからだ。
また、そこで発せられたメッセージは言語の壁をも簡単に超えていく。日本語で語られたリナ・サワヤマのメッセージが英語圏のメディアで報じられ、英語で語られたメーガン・ジー・スタリオンのメッセージが瞬く間に日本国内のSNSで話題となったのは、その内容に共感し、それを翻訳して一人でも多くの人々へ伝えようとするファン、あるいはコミュニティがいたからだ。
つまり、巨大な音楽フェスティバルのステージに立つということは、世界中の人々に対してアピールする、メッセージを伝えられる場を持つことと同義であり、それは同時に大きな責任を伴うものである。現代のポップミュージックのメインストリームで活躍するアーティスト(と、それを支えるスタッフ)は、それを自覚し、その責任と正面から向き合っている。だからこそ、今年のサマソニはただの祝祭というだけではない、様々なメッセージに満ちた意義のある場所となっていたのだ。
そうなんだよ!!!
フェスのステージは何も演奏の為だけじゃなくて、アーティストの社会に向けたステイトメントの場であって、それを更に多くの人に届けられるのがSNSのメリット、そして果たすべき使命であって。
洋楽なんか尚更その場にいても理解できない人沢山いるし。
だからサマソニの録画録音の禁止は、この時代においてデメリットしかない。
大体、ただの建前でほとんど機能してないから、実質そのアクトを近くで見たいファン程撮れなくなってて理不尽だし、そもそも海外アーティストは人が撮ったものリポストしまくるし。てかこのライターも撮影されること前提で文書いてるし。
とりあえず苦手意識のあったですます調の文が自分にも書けることが分かってよかった。自信が付いた。
というか今度は今までの文章を読み返すと、支離滅裂さに拍車がかかって見えるようになってきた。怖い。もう二度と読みたくない。
アイドル見てピラミッドの上にいるとかふざけたこと書いてないで、もっとこんな感じの有益な文章を書くべきか… でもここでまた価値のある文ない文とか考えだすと死ぬのでやめよう。
でも記事を書いてて思った。
私もこの曲のメッセージ、全然受け取れてないな。
結局自分は、マイノリティでも、かといってマジョリティでもない、一人だけ外野から眺めてる気分だった。
「ありのままでいい」
その言葉と真剣に向き合ってみたら、なんか、そんな残酷なこと言わないで欲しいと思った。
そんなの透明人間になれって言われてるみたいだった。0点の解答用紙を見て「そのままでいいのよ」って言われてるみたいだった。
そのままで良いわけないだろ。
こんなに何の価値も無い人間なのに、それでいい、それがあなただと言われた気がした。空っぽの器に他人からの評価や承認を入れて辛うじて人間を保ってるのに、それを否定された気がした。それを取り除いたら、私には何も残らないのに。
ありのままで?私は初めからなにでもなかった。ありのままを探そうにもどこにもいなかった。
私の歪み切った思考回路にはこの曲は手遅れだったことに気付いて泣いた。
私はコナーの“I don't wanna be myself, just wanna be someone else”を一生聴いてそうだ……