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自分に影響を与えたかっこいい音楽を紹介したりとかしてます。

空色のランドセルに教えられること

 

駅からの帰り道。
ランドセルを背負った小学生の女の子が二人、はしゃぎながら前を歩いていた。一人のランドセルは晴れた日の空のような色、もう一人のは焦げ茶色だった。

私が小学生だったのはもう十年以上も前のことだ。
私は入学式の前に買ってもらったランドセルを六年間ずっと背負って通い、最後はユニセフを通して外国に送った。

私のランドセルは赤かった。
赤は私の好きな色ではなかった。今買ってもらうとしたら、私は決まって青系のランドセルをねだったと思う。

それでも当時の小学生のランドセルは、女の子が赤、男の子が黒がほとんどだった。クラスメイトに他の色のランドセルを背負っていた子も若干名いたが、決まってその子には「風変わりな子」というようなイメージがあった。

赤と黒以外の色が沢山出回るようになったこと自体、ここ数年になってからというのもある。だけど、当時の私は何の疑いもなしに、赤いランドセルを選び、六年間背負っていた。


どうして「赤」なのか。


そう問われれば、「そういうものだから」と答えたと思う。

突き詰めれば、理由など無かったのだ。

 

“常識とは、十八歳までに身につけた偏見のコレクションである”

アインシュタインの言葉だ。

私の頭の中に溜まった「そういうものだから」のコレクションには、いつの間にやら常識という大層なラベルがついていた。

留学中に中国人のクラスメイトとテストの答え合せをした時、私のつけた赤い丸は一体どういう意味なのかと聞かれた。私の「そういうものだから」は、全く通用しなかった。

 

世の中にも、人々の偏見が凝り固まって「そういうものだから」で片付けられてしまっているものが沢山あると思う。

「そういうものだから」は、私達の思考を停止させ、社会をつまらなくする。

人々の「そういうものだから」が、カラフルなランドセルを長いこと生み出さなかった。私も青いランドセルを背負った自身を思い描くことすらしなかった。女の子が赤いランドセルを、男の子が黒を必ず持たなければいけない理由なんて、どこにも存在しなかったのに。

「そういうものだから」は、社会をつまらなくするどころか、時に他者を排除する為の武器となる。異質なものの存在を否定することを、可能にしてしまう。

 

-どうして男の子はスカートを履いてはいけないの?
-そういうものだから。

-どうして女の子はお医者さんになれないの?
-そういうものだから。

-どうして私は日本人で、あの子は日本人ではないの?
-そういうものだから。

 

「そういうものだから」で片付けてきたものを、私達は再び一から問いたださなくてはいけないと私は思う。

この言葉が免罪符として人々に使われる限り、日本社会に本当の平等や自由が訪れることはないだろう。

だから私は、道でカラフルなランドセルを見かける度に、ふと身が引き締まるような思いがするのだ。

 

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いつの日かnoteに書いた文章。

アカウントを消すのでこちらに残しておく事にした。四六時中こういうことばかり考えてる性分なので非常に疲れる。